前ページでは漢方医学の歴史を前編と後編に分けて解説いたしました。ここからは既出の歴史を踏まえて、現在まで続く漢方医学を継承してきた人物にスポットを当ててゆきます。一部には伝説上の人物も含まれていますが、学術的に重要と考えて収載しました。
黄帝は古代中国における伝説上の人物です。伝説では黄帝は生まれてすぐに言葉を話し、聡明でありながら精悍であったとされています。有力者同士が戦争を繰り広げる中、それを仲裁して平和な時代を築いたといわれています。まさに古代中国版「スーパーマン」というところです。
その黄帝が著したとされるのが黄帝内経(こうていだいけい)であり、中国最古の医学書です。しかしながら、実際に黄帝が書いたものではなく(皇帝自身が伝説上の人物なので当たり前ですが…)、複数の人物と長い時間をかけて書き綴られたという説が有力です。黄帝内経は紀元前200年頃の前漢の時代に成立したとされています。
そのような黄帝内経ですが、内容は黄帝が医学のエキスパートである岐伯(きはく)に質問をし、その答えをまとめるQ&A形式で構成されています。具体的には陰陽論や五行論といった古代中国の世界観、そしてそれに基づいた人体における気(き)・血(けつ)・津液(しんえき)と五臓六腑(ごぞうろっぷ)の働きなどが紹介されています。
他にも季節ごとの養生法、症状と病邪の関係、鍼灸を中心とした治療法などが載っています。その一方で生薬(漢方薬)を用いた治療法の記述は意外にも少ないものでした。
神農もまた黄帝と同じように伝説上の人物であり、古代中国における農耕と薬の祖とされています。神農は人々に農具の作り方や田畑の耕し方を伝えたことから「神農」と崇められました。くわえて神農はありとあらゆる草根木皮を食し、それらが薬となることを示しました。
その経験から生まれたのが神農本草経(しんのうほんぞうきょう)であり、中国最古の本草書(個々の生薬の効果を記録した書)といわれています。実際に神農本草経が生まれた時代には諸説がありますが後漢の時代(紀元後200年頃)とされています。著者に関しても詳しく明らかになっていません。
この神農本草経には365種類の薬が収載されており、内訳は植物由来のものが252種、動物由来のものが67種、そして鉱物由来のものが46種となっています。さらにこれらを上薬・中薬・下薬に分類されています。
上薬は普段から服用していると健康増進効果があり無毒とされています。中薬は有毒なものもあるので養生や治療に用いるものです。そして下薬は基本的に有毒なものであり、慎重に治療にのみ用います。
神農本草経における上記の分類法は既にこの時代から治療よりもその予防や養生を非常に重視していたことを示しています。1800年以上前からこのように考えていたという事実はまさに驚くべきことです。
張仲景(生年不明~219)は中国の長沙を治めていた人物です。この張仲景が著したとされるのが漢方医学において最も重要とされている文献、傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)です。成立は紀元後200年頃、後漢の時代であり神農本草経とほぼ同時代に生まれたとされています。
張仲景は自分の一族の多くを流行性の病である傷寒によって失ったことをきっかけに傷寒雑病論を作り上げました。しかし、実際には複数の人物による共著という説が有力です。傷寒雑病論は後に感染症治療を中心に扱う部分が傷寒論(しょうかんろん)、慢性病を扱う部分が金匱要略(きんきようりゃく)とそれぞれ独立した文献として分かれてゆきました。
これら傷寒論と金匱要略には本格的な漢方薬を用いた治療が登場しています。現代の日本でも用いられている葛根湯、当帰芍薬散、八味地黄丸などの超有名漢方薬も傷寒論や金匱要略に収載されています。今日、頻用されている漢方薬の多くが両書に載っていることからもその重要性がわかります。
日本の江戸時代においては過度に複雑化していた治療理論を極力排除し、古来のよりシンプルな治療を行うべきという運動が盛んになりました。そういったイデオロギーをもった治療家たちが治療方針の軸としたのが傷寒論や金匱要略でした。この潮流は今日における漢方治療にも影響を及ぼしています。
日本に中国伝統医学が導入され始めたのは紀元後400年頃の大和時代、朝鮮半島を経由して始まったとされています。その後は遣隋使や遣唐使に代表される中国との直接的な交易も介して知識の輸入が行われました。
中国伝統医学が上陸してから1000年以上の時を経た16世紀、室町時代の医師である田代三喜(1465~没年不明)は中国(当時は明)に約10年、留学しました。田代三喜は明で金元時代に発展した李朱医学を学び、その知識を日本に導入した人物として有名です。「李朱医学」とは李東垣(りとうえん)と朱丹渓(しゅたんけい)が提唱した医学を指します。
金元時代の医学は陰陽論、五行論、六気といった理論を臨床レベルに導入したという点で革命的なものでした。今風に表現すれば医学界のイノベーションが金元の時代に起こったということです。
田代三喜が日本に広めた李朱医学はその後の日本における漢方医学の礎となりました。この金元時代の医学は傷寒論や金匱要略の時代よりも経時的に「後」の流れなので、後世方(ごせいほう)と呼ばれます。したがって、田代三喜は後世方派の元祖といえる存在です。
李東垣(1180~1251)は金元時代を代表する医師です。元の名は李杲(りこう)であり、晩年に李東垣と号しました。李東垣は人々が病気になる原因は脾胃(消化器系)が弱まったためと考え、それを治すことを治療の核としました。簡単に表現すれば李東垣の治療方針は胃腸を元気にして病気を治したり、病気にならない身体づくりを行うことといえます。
この李東垣の考えを支持する一派は温補派や補土派と呼ばれました。なぜ「土」なのかというと、五行論における脾(ひ)は土のグループに属すると考えられているからです。
李東垣の代表的な著書に脾胃論(ひいろん)や内外傷弁惑論(ないがいしょうべんわくろん)が挙げられます。前者には今日の日本でも頻繁に用いられている半夏白朮天麻湯、後者には補中益気湯が収載されています。
朱丹渓(1281~1358)もまた金元時代をリードした医師の一人です。本名は朱震亨(しゅしんこう)でしたが、今日の浙江省の「丹渓」という場所で暮らしていたので「朱丹渓」と呼ばれるようになりました。
朱丹渓の治療方針は不足している陰を補うことで、相対的に亢進している陽を鎮めることにありました。よりシンプルに述べれば朱丹渓の治療は陰陽の崩れたバランスを回復する滋陰降火を基調としたものでした。この為、朱丹渓の治療方針を支持するグループは養陰派や滋陰派と呼ばれました。
曲直瀬道三(1507~1594)は日本に金元時代の医学、主に李朱医学を伝えた田代三喜の弟子にあたります。したがって、曲直瀬道三は田代三喜と並ぶ後世方派の代表的人物といえます。
曲直瀬道三は田代三喜の教えをもとに李朱医学を継承しました。その一方であまりに複雑な理論をシンプルに解釈して日本の風土に合う形に発展させました。医師としての実力も高く、時の権力者である毛利元就、織田信長、豊臣秀吉も曲直瀬道三を重用したといわれています。
くわえて曲直瀬道三の業績はその医学を教える学校である啓廸院(けいてきいん)を設立したことです。啓廸院の卒業生たちはその後も後世方派として活躍してゆきます。曲直瀬道三の著書である啓迪集も実用性の高い医学書として高い評価を得ています。
(戻るには漢方名処方解説をクリックください)