漢方名処方解説

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8)漢方医学における重要文献(後編)

このページでは黄帝内経、神農本草経、そして傷寒雑病論(傷寒論・金匱要略)の書かれた時代以降、後漢時代以降の代表的な文献のごく一部を紹介いたします。基本的には古い文献の順になっていますので、ページの下に行くにつれて現代に近付いてゆきます。なお、文献名の前にが付いているものは日本生まれの文献になります。

下記は諸説ある中で大まかな中国の歴史(時代の区切り)と、その時代の代表的な文献になります。読み進める上で参考にしてください。

秦時代(紀元前221~紀元前207)
前漢時代(紀元前207~紀元前8)………黄帝内経
新時代(紀元 8~紀元 25)
後漢時代(25~220)………神農本草経、傷寒雑病論(傷寒論・金匱要略)
三国時代(220~265)
晋時代(265~420)
南北朝時代(420~589)………小品方
隋時代(589~618)………諸病源候論
唐時代(618~907)………備急千金要方、千金翼方、外台秘要、※大同類聚方
五代十国時代(907~960)
宋時代(960~1279)………※医心方、太平恵民和剤局方、小児薬証直訣
宋の時代に含まれるように金朝(1115~1234)
元時代(1270頃~1368)………内外傷弁惑論、脾胃論
明時代(1368~1644)………本草綱目、万病回春
清時代(1644~1912)………※勿誤薬室方函、※勿誤薬室方函口訣
中華民国(1912~)と中華人民共和国(1949~)が併存………※漢方診療医典

小品方(しょうひんほう)

小品方は陳延之(ちんえんし)によって南北朝の時代にあたる450~470年頃に書かれた医学書です。小品方は後の唐の時代において国定の医学教科書に採用されており、当時では傷寒論と比肩する文献とされていました。

この頃、すでに日本には遣隋使や遣唐使を通じて中国大陸から多くの医学書が伝わっていました。小品方もまた導入され、今日でも日本においてその一部は現存しています。701年に日本において施行された大宝律令でも小品方は神農本草経集注や素問と並び国定教科書の指定を受けました。したがって、小品方は日中共通の公的な医学テキストの先駆けといえます。

諸病源候論(しょびょうげんこうろん)

諸病源候論は巣元方(そうげんほう)が隋の時代にあたる610年に完成させた病理学書です。当時の隋の皇帝、煬帝の命令で作成されたといわれています。主に病気の名前、症状、そして原因を記載したもので、内科系疾患から外傷まで幅広く紹介されています。その一方で傷寒論や金匱要略とは異なり具体的な治療法には触れられていません。

諸病源候論は上記の通り治療法は記載されていませんが、その病気の分類方法は後に生まれる文献にも影響を及ぼしました。下記に登場する王燾が著した外台秘要なども同書の病気分類をベースに処方が紹介されています。

備急千金要方(びきゅうせんきんようほう)

備急千金要方は孫思邈(そんしばく)によって唐の時代にあたる650年頃に作成されました。しばしば略して千金要方とも呼ばれます。備急千金要方はそれまで存在した多くの処方集(漢方薬のリスト)から、有用で緊急時に活用できる処方をまとめた医学書です。

備急千金要方は身体の弱い女性や子供の病気に比重が置かれているという特徴があります。幅広い疾患についての薬物治療法の他に備急千金要方には食事の注意、呼吸法、鍼灸治療法なども記載されています。備急千金要方が完成した後、傷寒論の記述を反映させて同書を補完した千金翼方(せんきんよくほう)も作成されました。

孫思邈は非常に有能な治療家でしたが名誉欲は薄く、当時の皇帝たちの招きをことごとく断り隠居。身近な人々の治療を熱心に行っていました。自身も幼少は病気を患い、家族に迷惑をかけたといわれており、そのような背景が備急千金要方や千金翼方に繋がっているのかもしれません。孫思邈はその仁徳の高さから今日の中国において最も人気がある医師の一人であり「薬王」の名で尊敬されています。

今日でも用いられる温胆湯、当帰湯(同名処方があるのでしばしば千金当帰湯)、堅中湯、補肺湯は備急千金要方に収載されています。

外台秘要(げだいひよう)

外台秘要は王燾(おうとう)が唐の時代にあたる752年頃に完成させたとされる医学書です。王燾はもともと病弱であり、母親もまた病気がちであったことが医学に目覚めるきっかけであったとされています。

王燾は医事を司る公職に就いていたので国立図書館に通いつめ、膨大な数の医学書を引用して外台秘要を作り上げました。外台秘要の特徴としてそこに収載した処方の引用元が細かく記述されている点が挙げられます。これにより外台秘要が登場する以前の文献の姿をより知ることが可能となり、医史学的価値も高い医学書といわれています。

外台秘要に収載されている処方のうち延年半夏湯、神秘湯、独活葛根湯などは今日の日本においても用いられています。

大同類聚方(だいどうるいじゅほう)

大同類聚方は日本において平安時代の初期にあたる808年に作成された日本独自の医学をまとめた文献です。桓武天皇の命令により出雲広貞(いずものひろさだ)、安倍真直(あべのまなお)らが編纂した日本初の医学書といわれています。

この大同類聚方が作成された経緯は大陸から遣唐使などを通じて「輸入」されてくる中国伝統医学に圧倒され、日本古来の医学が滅んでしまうことを防ぐためとされています。遣唐使自体は838年を最後に中止されましたが、すでに主要な文献は日本に導入されていたと考えられています。大同類聚方はそのような時代背景が生み出した医学書です。

その一方で大同類聚方は現存しておらず、謎の多い文献でもあります。その内容自体も純粋に日本独自のものだったのか疑問も提起されています。

医心方(いしんほう)

医心方は丹波康頼(たんばやすより)によって平安時代の中期にあたる984年に作成された現存する日本最古の医学書です。大同類聚方は連綿と受け継がれてきた日本独自の医学が記録されているのに対し、医心方には隋や唐から導入された文献が多く引用されています。

医心方は完成後に宮廷へ献上され厳重に管理されました。そのために実態が広く一般にも明らかになったのは江戸時代後期とされています。すでに中国でも失われてしまった重要な文献が医心方には引用されているため、歴史的価値もまた非常に高い医学書といえます。

その価値の高さを受けて医心方は完成から1000年後の1984年、国宝に指定され今も東京国立博物館に収蔵されています。 こちらの東京国立博物館のホームページ からその一部を目にすることができます。内容としては陰陽五行論といった理論の多くが省略され、実用性を重視した体裁となっています。

やや余談になりますが、著者の丹波康頼の子孫たちはその後も代々、宮廷に仕える医師となりました。その子孫には現在の東京薬科大学の前身である東京薬学専門学校初代校長の丹波敬三や俳優であり著名な心霊研究家(?)の故・丹波哲郎が含まれます。

太平恵民和剤局方(たいへいけいみんわざいきょくほう)

太平恵民和剤局方は陳師文(ちんしぶん)らを中心に宋の時代にあたる1110年頃に編纂された医学書です。後に最低でも4回の改訂を経てその内容も充実してゆきました。しばしば略して和剤局方とも呼ばれ、むしろその名の方が有名です。

宋の時代の皇帝たちは医学振興に熱心で、和剤局(朝廷が運営していた薬局)で用いられる公的な処方集を作成することになりました。そこで津々浦々の医師から有益と思われる処方を集め、それらの有効性を試験し、その結果として生まれたのがこの太平恵民和剤局方です。中央政府(朝廷)が計画から編纂まで一貫して関与し、製作された世界初の医学書ともいわれています。

唐時代に生まれた中国の印刷技術は宋時代になると大きく発達し、これまで手書きで作成されていた医学書もまた出版物として広く出回るようになりました。後漢時代に生まれた傷寒論もこの頃、印刷され出版されました。太平恵民和剤局方も例外ではなく、出版後は中国だけではなく日本でも広まり盛んに用いられました。

太平恵民和剤局方には難解な理論や治療家個人の思想は除かれ、病状からシンプルに用いるべき処方が検索できる仕様になっていた点も同書が普及した理由とされています。この点は後の金元時代に生まれた文献(下記の内外傷弁惑論や脾胃論など)と大きく異なる点です。

太平恵民和剤局方に収載されている処方で今日でも用いられているものに安中散、胃風湯、藿香正気湯、香蘇散、五積散、四君子湯、四物湯、十全大補湯、升麻葛根湯、逍遥散、参蘇飲、参苓白朮散、清心蓮子飲、川芎茶調散、銭氏白朮散、蘇子降気湯、二陳湯、人参養栄湯、不換金正気散、平胃散などが挙げられます。

小児薬証直訣(しょうにやくしょうちょっけつ)

小児薬証直訣は銭乙(せんいつ)の没後、宋時代の1119年にまとめられた小児科に特化した初めて医学書です。こども達は自分自身の症状をうまく表現することができないので、充分な問診を行うことができません。そこで銭乙はこども達の顔色(面上証)や眼の状態(目内証)などを手掛かりに治療を行いました。

小児薬証直訣はそのような銭乙の独自の治療方針などが記されています。この小児薬証直訣には今日でもこども達の発育不良や体力不足などに頻用されている六味地黄丸が地黄円という名前で初めて登場することでも有名です。

内外傷弁惑論(ないがいしょうべんわくろん)と脾胃論(ひいろん)

内外傷弁惑論は1247年、脾胃論は1249年の金時代に李東垣(りとうえん)によって書かれた医学書になります。李東垣は治療において五行論の土(ど)にあたる脾(ひ)を補うこと、つまり消化器系の機能向上を重視していました。両書にはそれが通底しています。

これまでの医学書は治療を論ずるための基礎理論よりも実践的で用いやすさを重視する傾向がありました。一方で金元時代になると各流派がそれぞれの治療理論とそれを基盤とした治療法を展開するようになります。その中でも李東垣の補脾や朱丹渓(しゅたんけい)の滋陰の考え方は日本漢方(特に後世方派)にも大きな影響を与えました。

内外傷弁惑論には補中益気湯、脾胃論には半夏白朮天麻湯や清暑益気湯が載っており、これらは今日でもしばしば活躍する処方です。李東垣が創作したこれらの処方は補脾に重点が置かれ比較的、多くの生薬が少量含まれているのが特徴です。

本草鋼目(ほんぞうこうもく)

本草綱目は李時珍(りじちん)によって明の時代の1578年に完成した本草学書です。神農本草経の項目でも述べた通り「本草」とは生薬として用いられる植物・動物・鉱物の総称です。

さらに本草学は生薬単体の名称や形態を整理し、薬効や用法などを研究する学問です。この本草綱目は「元祖・本草学書」ともいえる神農本草経に匹敵する知名度とそれを凌駕する完成度を誇る本草学書です。

李時珍はそれまで存在していた本草学書には誤りや過不足が多く、それらを正す必要を感じていました。そこで膨大な文献にあたり、約25年の歳月を費やして完成したのが本草綱目です。そこには約1900種類の生薬と11000種類を超える処方がまとめられています。神農本草経に収載されている生薬が365種類だったことを考えると、本草綱目の取り扱い生薬数は単純計算でも5倍強にあたり、その凄さがわかります。

この本草綱目という後世にまで受け継がれる大著を完成させた李時珍ですが、医学を学ぶ前は官僚になることを希望して科挙(官僚登用試験)を受験しています。残念ながら結果は不合格でしたが、もし李時珍が合格していたら本草綱目は生まれていなかったことでしょう。

万病回春(まんびょうかいしゅん)

万病回春は龔廷賢(きょうていけん)によって明の時代の1587年に編纂された医学書です。この時代の日本は安土桃山時代、豊臣秀吉が天下統一を果たす3年前にあたります。万病回春は本草綱目などと並んで当時の日本医学会の主流派である後世方派に大きな影響を与えた医学書のひとつです。

日本独自の医学の黎明期を支えた後世方派の源流は明へ留学していた田代三喜(たしろさんき)、そしてその弟子である曲直瀬道三(まなせどうざん)です。万病回春は曲直瀬道三の甥であり、後継者の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)らの世代によって盛んに研究されました。

日本の医学史に刻まれる後世方派が重要視した文献である万病回春には今日でも用いられている処方はとても多いです。その中でも代表的なものに胃苓湯、温清飲、加味温胆湯、芎帰調血湯、響声破壊笛丸、駆風解毒湯、荊芥連翹湯、啓脾湯、荊防敗毒散、香砂平胃散、香砂養胃湯、五虎湯、五淋散、滋陰降火湯、滋陰至宝湯、潤腸湯、清上防風湯、清肺湯、疎経活血湯、通導散、二朮湯、分消湯、六君子湯などが挙げられます。

万病回春の他にも龔廷賢の著作としては済世全書(さいせいぜんしょ)や寿世保元(じゅせいほげん)が挙げられます。前者には当帰飲子や補気建中湯、後者には加味解毒湯、清上蠲痛湯、竹茹温胆湯などが収載されています。

勿誤薬室方函(ふつごやくしつほうかん)と勿誤薬室方函口訣(ふつごやくしつほうかんくけつ)

勿誤薬室方函と勿誤薬室方函口訣は浅田宗伯(あさだそうはく)によって明治時代の1877年と1878年にそれぞれ書かれた医学書です。非常に難しいタイトルで憶えるだけでも大変なですが、今日の医療現場で用いられている多くの処方の運用指針となっている極めて重要な文献です。

「勿誤薬室方函」という文献名を分解してゆくと「勿誤」とは「誤る勿(なか)れ=誤った治療はするな」という戒めです。続く「薬室」はそのまま「薬局」です。この「勿誤薬室」という名は浅田宗伯の治療場の名前であり、いわばブランドネームのようなものです。「方函」は「方剤が保管されている箱(函)」という意味です。

つまり勿誤薬室方函は浅田宗伯が常々治療で用いていた処方が収載されている処方集であり、それら処方の運用方法の重要点を簡単なフレーズ(口訣)を交えて編集したものが勿誤薬室方函口訣です。

両書には浅田宗伯がゼロから創作した処方以外にも、過去の文献に収載されている処方の使用方法がわかりやすく整理されています。その中には原典からはなかなか想像もできないような、固定観念を廃した応用方法も書かれています。

有名なものにしばしば「胃酸過多症を改善する胃薬」として用いられる安中散を気血の流れが悪くなって起こる生理痛に転用したり、戦によって錯乱してしまった軍人に用いられていた安栄湯を女性のめまいやほてり感に応用しました。現在、安栄湯は婦人科系の使用方法の方がはるかに有名であり、勿誤薬室方函口訣に載っていた女神散(にょしんさん)という別名称がより定着しています。

漢方診療医典(旧題:漢方診療の実際)

漢方診療の実際は1941年(昭和16年)に大塚敬節(おおつかけいせつ)らによって書かれた医学書です。著者は当時の古方派、後世方派、そして折衷派の大家が担当しており、流派による偏りがなくバランスのとれた日本漢方の学習書に仕上がっています。後にタイトルを漢方診療医典に改めて、今日でも書店の東洋医学コーナーやAmazonでも販売されています。日本だけではなく1953年には中国、1963年には韓国でも出版されました。

主な内容は現代的な病名から頻用される処方が探せたり、口訣を交えて各処方のより詳しい解説も書かれており抵抗なく読み進められる編集となっています。その他にも漢方医学の歴史、診察時のポイントや治療方針の決め方、各生薬のはたらき、漢方用語の解説などが詰まっており、一冊で日本漢方の世界が俯瞰できます。

近年、出版されている書籍はタイトルに「漢方」と付いていても中医学の基礎理論をベースに書かれた書籍が多いです。そのような環境下でも本書はロングセラーとして生き続けている日本漢方の「入口」であり「世界地図」といえる一冊です。

本朝経験方(ほんちょうけいけんほう)

本項目は番外編となります。処方集に目を通すと出典が「本朝経験方」となっている処方がいくつもあります。しばしば誤解されるのですが、これは本朝経験方という名の文献が出典なのではなく、日本で生まれて経験的に幅広く用いられているが明確な創作者がわかっていない処方という意味です。本朝経験方は日本経験方とも表記されます。

その一方で本朝経験方という名前の文献は江戸時代に多紀元簡(たきもとやす)という折衷派の医師によって書かれてもいます。このような事実が誤解を生む一因になっているのかもしれません。

この本朝経験方に対しては厳密な定義があるわけではありません。時には大塚敬節が創作した七物降下湯や花岡青洲が生み出した十味敗毒湯のように、創作者がわかっている日本生まれの処方が本朝経験方に含まれている場合も見られます。しかしながら、多くの場合は上記で説明した通り「作者不明」を指しています。

本朝経験方の特徴としてはベースとなる処方に数種類の生薬を加えたり、2つの処方を合体(合方)させたものが多いという点が挙げられます。前者は葛根湯に辛夷と川芎を加えた葛根湯加川芎辛夷、後者は小柴胡湯に半夏厚朴湯を合方した柴朴湯などが有名です。

その他にも代表的な本朝経験方には桂枝茯苓丸加薏苡仁、五虎二陳湯(五虎湯合二陳湯)、柴陥湯(小柴胡湯合小陥胸湯)、柴蘇飲(小柴胡湯合香蘇散)、小柴胡湯加桔梗石膏、小青竜湯合麻杏甘石湯、治頭瘡一方、猪苓湯合四物湯、伯州散、茯苓飲合半夏厚朴湯、抑肝散加陳皮半夏などが挙げられます。

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