咬爪症(こうそうしょう)とはその字の通り、爪(つめ)を咬(か)んでしまう症状を指します。しばしば咬爪症はネイルバイティング(Nail biting)やオニコファジー(Onychophagy)とも呼ばれます。咬爪症において多くのケースでは爪だけではなく、爪の周りの皮膚も噛んでしまったり、その爪や皮膚を食べてしまう傾向も見られます。一方で爪を噛む行為自体は多くの人に見られ、特に小学校の低学年くらいの児童では珍しいものではありません。
学童期以降、成人になっても爪を噛むことがやめられない場合はその背景に精神的なストレスが存在するとも考えられています。 爪噛みという行為には精神状態を安定させる効果があるとの指摘はあります。一方で咬爪症には衛生的な問題、さらには美容的な問題も生じます。咬爪症の症状が深刻な場合は「ただの癖」で処理せず、治療の必要性が出てきます。
そしてやや脱線してしまいますが「かむ」という字には「咬む」と「噛む」が存在します。前者の「咬む」は歯と歯を合わせる「かむ」なのに対して、後者の「噛む」は歯で(歯以外の)物をかむことを指しています。したがって、本ページではこの定義に従って「咬」爪症という病名は登場しますが、「爪を咬む」ではなく「爪を噛む」という形で表記してゆきます。
咬爪症の原因には精神的なストレスが関係していると考えられています。爪を噛んだり指をしゃぶったりする行為には精神状態を安定させる効果も指摘されています。したがって咬爪症は過度なストレスを発散させ、蓄積を防ぐ役割があるともいえます。その一方で誰しも精神的なストレスを受けることによって爪を噛む行為が現れるわけではありません。まだまだ咬爪症は謎が多い存在といえるでしょう。
咬爪症は自分の意志ではコントロールできない爪噛み行為です。しばしば爪だけではなく、周りの皮膚も噛んで傷付けてしまいます。噛んでしまう爪はほとんどの場合は手の爪ですが、足の爪にも症状が及ぶこともあります。
咬爪症の問題は噛んだ爪や皮膚を傷つけてしまうだけではなく、噛んだ結果として生まれてしまうとがった爪による「二次被害」も挙げられます。ゲジゲジと凹凸があるような爪は身体などをひっかいてしまうことも問題となります。深爪で充分な長さがないため手先に力が入らなかったり、傷口が水などに沁(し)みて痛みを伴うことで手を使う作業に制限が生まれてしまうこともあります。
手先は何かと人目に入りやすい部分でもあるので美容の観点からも好ましくはありません。特に女性においては爪も個性を表現する「場」でもあります。咬爪症はネイルデザインにも大きな制約が出てしまうことも「症状」のひとつと捉えられるでしょう。このような特徴から咬爪症は医療業界よりもネイルサロン業界でとても有名な症状でもあります。
西洋医学において咬爪症の治療法は確立されてはいませんが、主にストレスの緩和に主眼が置かれています。したがって、治療薬としては心療内科において精神を安定させる薬が用いられることが多いようです。
漢方医学的に爪噛みという行為は精神的なストレスなどによって気が滞ってしまった結果と考えられます。この気がうまく流れない病能を気滞(きたい)と呼びます。気の流れが悪くなると過度な緊張感や不安感が高まり、身体においては喉や胸の圧迫感、腹部の張り感、吐気、胃痛や腹痛、便通の異常、女性の場合は生理不順や生理痛などさまざまな症状が現れます。
気滞は気の不足や血の流れにも影響を及ぼします。したがって、咬爪症が現れている場合、他にもどのような症状が併せて起こっているのかを捉える必要があります。
咬爪症の原因が気の流れの停滞であった場合、その気を円滑に流すことが治療につながります。したがって、用いられる漢方薬は柴胡、枳実、陳皮、半夏、厚朴、香附子などの気を巡らす生薬(理気薬)を多く含んだものになります。
気が流れなくなると徐々に気の不足(気虚)も現れてきます。気虚に陥ると疲労感、重だるさ、気力の低下、食欲不振、冷えなどが起こりやすくなります。これらの症状が咬爪症と併せて見られるようならば気を補う生薬(補気薬)の人参、黄耆、大棗、白朮、甘草なども必要となってきます。
上記のように気滞を発端として血の滞り(瘀血)や水の滞り(痰湿)が見られる場合はそれぞれのケアも欠かせません。したがって、咬爪症という病名ではなく患っている方の症状や体質を見極めて治療に適している漢方薬が選択されます。
咬爪症の症状はしばしば精神的にも体力的にも余裕のない時に起こりやすい傾向にあります。具体的には仕事がうまくいっていない時、受験の勉強中、苦手な人とどうしても話さなければならないケースなどさまざまです。これらを回避するのは社会生活を営んでいるうえで不可能です。そこで可能な限り、日常から睡眠時間や休日は確保して心身両面の体力を確保することは咬爪症治療には欠かせません。
爪噛みはしばしば無意識のうちに起こってしまうので、特に噛み癖のある指にバンソウコウを貼って気付きを促すことも咬爪症の予防につながります。一方で咬爪症の歴史が長い場合、すぐに噛むのをやめるのは難しくストレスも溜まりやすくなります。そこで高頻度に使う利き手の爪を噛むのをまず我慢する、というように実現可能なハードルを設け、クリアしてゆくことが段階的な治療にもつながります。
患者は30代前半の女性・文筆業。爪を噛む癖は中学校受験の前から始まり、一時は落ち着いたものの試験勉強中などにしばしば現れていた。現在は雑誌にコラムなどを書く仕事に就いているが、行き詰ると爪噛みを止めることができず「ここ20年は爪切りを使ったことは無い」とのこと。時には爪両側の皮膚も剥いてしまい出血し、原稿に血痕がついてしまうこともしばしばという。
長い間、爪を噛む行為には悩んでいたところ、仕事を通じて「咬爪症」という病名を偶然知り治療を決意。心療内科を受診して安定剤の服薬を開始しましたが、眠気と集中力の低下で仕事に支障が出てしまいました。いくつか薬を変えても同様の状態であったので治療を中止。その後に当薬局へご来局されました。
お話を伺うと咬爪症のご症状は仕事中、特にペンが進まない時に顕著とのこと。他のご症状としては胃痛、イライラ感、首や肩凝りなどがありました。咬爪症以外ではストレスを感じた時の胃痛がつらいという。この方には気の巡りを改善する柴胡や薄荷などを中心とした漢方薬を服用して頂きました。くわえて出来るだけ自宅にこもりっぱなしになるのは避け、軽い散歩を心がけてもらいました。
服用から2ヵ月が経過すると仕事中にたびたび起こっていた胃痛は軽快し、イライラ感も減っていました。しっかりとウォーキングも継続できているとのこと。しかしながら、まだ爪を噛んでしまうことに大きな変化は無し。一方で服用していると気分はとても良いということで変更は行わず継続して頂きました。
その後、咬爪症の改善は一歩一歩進み、1年半が経過する頃になるとほとんど無くなってしまっていた小指の爪も1cmくらいにまで伸びていました。他の爪も噛んで全くなかった爪先の白い部分(フリーエッジ部分)が見られるようになりました。爪の形を整えるためにニッパー式の爪切りも使うように(使えるように)なったとのこと。
ご自身でも漢方薬の服用にくわえて頻繁にマニキュアを塗って爪を噛めなくするなどの努力も重ねられていました。咬爪症が落ち着いた後もイライラ感や胃痛の予防薬として、当初と全く同じ漢方薬を継続服用して頂いています。
ここからのエピソードは私自身(吉田健吾)のものです。私はいつから始まったのか覚えていないくらい昔から爪噛みの癖がありました。特に大学時代の後半は薬剤師国家試験、大学院入試、そして病院実習などが重なり咬爪症は顕著になっていました(無論、当時は「咬爪症」という病名は知りませんでしたが)。
無事に私は薬剤師となり、カウンター越しに患者さんに薬の説明を行う機会が生まれました。その際に手元の資料を用いて説明をしていると、どうしてもゲジゲジとなった爪が目立ってしまうことが気になりだしました。そこで漢方薬を用いて咬爪症の自己治療を行うことにしたのです。この頃は社会人になりたてで緊張感も強く、肩凝りや首凝り、そして頭痛の症状が顕著でした。
そこで自身の状態は五臓六腑における肝のはたらきが悪くなり、気の流れが停滞しているものと考えました。そして柴胡、釣藤鈎、川芎などから構成される漢方薬を服用することにしたのです。くわえて、夜など疲労が溜まってくると症状が出やすくなる自覚があったので睡眠時間の確保に努めました。
まず最初に効果が出たのは頭痛で、2~3ヵ月ほどで疲れた後などに起こっていた頭痛に悩まされることはほとんどなくなりました。そして服用開始から1年くらいが経過した頃には咬爪症の症状はほぼ消失していました。
肩や首の凝りもよほどデスクワークで無理をしなければ困ることはなくなりました。爪を噛みたい「誘惑」が強く現れそうな時は、仕事量をセーブしてより早めの就寝を徹底しました。
現在もあまり爪を長く伸ばすと割れやすくなるので頻繁に切って深爪ですが、堂々と人前に手先を出せる状態を維持できています。漢方薬は服用開始から大きく形は変えずに継続しています。
咬爪症は一般的にはあまり知られていない症状ですが、悩んでいらっしゃる方は意外にも多い印象があります。多くのケースでは爪噛みという行為以外にも緊張のしやすさやイライラ感などの症状が伴うことがほとんどです。
漢方薬はただ咬爪症の爪噛み行為を抑制するだけではなく、心身の乱れたバランスの改善を目指してゆきます。「癖だから仕方がない」で片付けず、咬爪症でお悩みの方は是非一度、当薬局へご来局ください。