イップス(Yips)とは精神集中が必要なゴルフのパッティングの際などに起こる、緊張やプレッシャーからくるふるえを指します。スコットランド出身のプロゴルファーであるトミー・アーマーが最初に呼称しはじめたといわれているように、基本的には「ゴルフ用語」とされています。しかし、上記の定義において「ゴルフのパッティングの際など」と表現するように、現在ではゴルフに限らず多くのスポーツに用いられる言葉となっています。
イップスは筋肉が意識していないのに緊張してしまう病気であるジストニアの一種といえます。その中でもイップスはプロゴルファーにとってのスイングのように職業柄の特殊な動きに限ってジストニアの症状が出てしまう職業性ジストニアといえます。
他の職業性ジストニアには速記者や学生など「書く」ことの多い方に発症しやすい書痙、ピアニストやバイオリニストがその楽器のみ演奏できなくなってしまうフォーカルジストニアなどが挙げられます。
現在、どうしてイップスが起こってしまうのか明確に解明はされていません。しかしながら、イップスが発症する原因として精神的ストレス(失敗してしまったプレーの記憶、過剰なプレッシャー、フォームの変更など)が関与していることから、それらが脳や特定の神経に悪影響を及ぼしていると考えられています。
イップスは元来、過剰な筋肉の緊張によってパッティングが円滑にできなくなってしまう症状を指していました。その後、アプローチ、ドライバーショット、バンカーショットなどにも同様の症状が起こることからパッティングに限らず幅広く用いられる「ゴルフ用語」となりました。
さらにイップスはゴルフという一競技の枠を飛び出し野球、テニス、卓球、弓道、アーチェリー、射撃、ダーツなどの競技にも用いられる「スポーツ用語」となっています。したがって、イップスは今日的には「特定のプレーのみが筋肉の過剰な緊張によってできなくなってしまう病気」といえるでしょう。
具体的には野球の場合は送球、フライのキャッチ、バントなどのプレーのみができないという症例が挙げられます。弓道やアーチェリーでは弦を引けない、または弦を離せないといった症例が見られます。例外はありますがイップスは腕や手を使った精密さが要求されるプレーに起こりやすいといわれています。
下記で詳しくご紹介しますが、当薬局にはゴールキーパー(サッカー)の方がゴールキックのみ行えないということでいらっしゃったことがあります。この症例などから、やや極論になってしまいますがイップスは競技の数だけ、さらにはプレー動作の数だけ存在するといえるでしょう。上記で挙げた野球や弓道などは特にイップスが起こりやすい競技でしたが、これ以外の競技でもイップスは起こりえるのです。
イップスはその原因が明確に解明されていないことなどから、確実な西洋医学的治療法やトレーニングによる克服法はまだ確立されていません。しかしながら、一般的なジストニア治療のように筋弛緩薬や抗不安薬が主に用いられます。薬物療法以外にも認知行動療法のようなカウンセリングも行われるケースもあります。
イップスの症状は筋肉の動きが制御できないことが根本にあります。漢方医学において筋肉の動きは肝(かん)がコントロールしていると考えます。漢方医学の理論における肝は筋肉の動きだけではなく、眼のはたらきを維持したり、精神や感情を安定化させるはたらきを担っています。この肝のはたらきが何らかの原因で失調した場合は筋肉の動き、眼のはたらき、気持ちの乱れなどが起こってしまいます。
肝が機能しなくなってしまうことでプレーに関係する筋肉のはたらきも失調し、イップスに繋がることがわかります。さらに気持ちの乱れはイライラ感、理由のない怒り、情緒不安定、ヒステリーなどを誘発し、イップスがより顕著化するという悪循環に陥りがちです。したがって、漢方医学的には肝に注目してイップスの治療を行うことになります。
イップスの症状に肝の失調が関与していることは上記で説明したとおりでしたが、根本的になぜ肝が失調してしまったのかを考える必要があります。肝は多くの場合、精神的なストレスによってその力が低下してしまいます。したがって、まずは過剰な精神的なストレスがないかを考える必要があります。経験的にはイップス克服のために過度な練習をすることで、プレーできない経験を重ねてしまう悪循環に陥っているケースが多いと感じます。
上記で述べてきた理論のとおり、漢方薬を用いたイップスの治療は肝をいたわることが中心となります。肝の力が衰えるということは肝にためられていた血(けつ)が消耗するということであり、それを補うような治療が中心に据えられます(これを「肝血を補う」「柔肝(じゅうかん)する」と言います)。
血を補う補血薬(ほけつやく)としては地黄、当帰、芍薬、阿膠、酸棗仁、竜眼肉などが挙げられます。特に芍薬は筋肉をリラックスさせる働きも持っているのでイップスの漢方薬にはしばしば含まれます。血を補う力はありませんが葛根は肩から首の筋肉をリラックスさせる働きに優れているのでイップスとそれに伴う首肩のつらい凝りの治療に適しています。
さらに精神的ストレスを緩和することで肝血の消耗を抑える理気薬(りきやく)、具体的には柴胡、枳実、陳皮、半夏、厚朴、香附子なども用いられます。他にも筋肉の緊張や震えを鎮める釣藤鈎、気持ちの乱れを鎮める竜骨、牡蠣などの生薬も併用されることが多いです。
これら以外にも主訴や体質が微妙に異なる場合はそれに合わせて臨機応変に漢方薬を対応させる必要があります。したがって、実際に調合する漢方薬の内容もさまざまに変化してゆきますので、一般の方が自分に合った漢方薬を独力で選ぶのは非常に困難といえるでしょう。
患者は40代後半の男性・プロゴルファー。約10年前から緊張によって両手の筋肉が過剰に緊張してしまい、パッティングを頻繁に失敗するようになってしまった。この症状は徐々に顕著化し、手の緊張はどんどん強くなってしまいました。パターを持つ手の握力は異常に高まり、筋肉痛が出てしまうほどに。
練習を繰り返しても良くなることはなく、短いパッティングすら全く成功しなくなってしまったとのこと。その後、この症状がきっかけで第一線から引退。ゴルフのレッスンを中心に生計を立てるようになりました。しかしながら、レッスンにおいてもうまく見本のパッティングができないことに悩み、当薬局にご来局。
詳しくお話を伺うと病院で抗不安薬や筋弛緩薬、さまざまなイップス治療の書籍やビデオを使用しても効果はなかったという。先輩からイップス経験者を紹介してもらい、その方から「あまり根を詰め過ぎるな」というアドバイスも受けましたが、どうしても練習をセーブすることはできなかったという。私(吉田)はゴルフの知識は全くなかったので、この方に出会って初めて「イップス」という病気が存在することを教えて頂きました。
イップスという病名は知らなかった一方で、伺ったご症状からこの方の場合は精神的な問題に由来する肝の失調であると考え、柴胡、芍薬、釣藤鈎などから構成される漢方薬を服用して頂きました。柴胡は気の巡りをスムーズにして精神的ストレスを軽減、芍薬や釣藤鈎は痙攣を鎮める効果が期待できるからです。
漢方薬服用から4ヵ月が経過する頃になると強かったパターを握る際の手首や指の緊張感が少し緩んできたとのこと。「昔はパターに手を添えるとその瞬間からジリジリと力が入っていたが、今はその感覚が薄くなってきた」とのこと。良い兆候と考えて同じ漢方薬を服用してさらに3ヵ月が経つ頃にはリラックスした状態でパターを握れるようになったと喜ばれました。
しかし、まだ肩から腕にかけて余分な力が入りフォームがぎこちないという。肩凝りも強いということで葛根や芍薬を含む漢方薬に変更しました。新しい漢方薬に切り替えて3ヵ月が過ぎるとイップスをほぼ克服されて、自然な形で球が打てるようになってきたとのこと。ご本人曰く「少しパッティングから距離を置きたくて打つのを控えていたが、先日、無性に打ちたくなって打ったら意外とスムーズに打てた」という。
レッスンの際にもパッティングの見本が「しっかりできるかまだドキドキはするが、できるようになってきている」とおっしゃられていました。それからもイップスの症状は現れることなく、現在も「イップス予防薬」ということで同じ漢方薬を服用して頂いています。
患者は大学2年生の男性。私でも知っているくらいの大学サッカー界の名門校に所属しておりポジションはゴールキーパー。1年前の重要な試合で自陣からのゴールキックに失敗して失点のきっかけをつくってしまった。それ以降も何度か不運なプレーが重なりスランプに陥ってしまったという。
以前から足元のプレーは決して得意ではなかったが、単純なキックにも過剰に緊張してしまうようになった。特にゴールキック時には利き足が硬直するほど緊張してしまい、現在は他の選手にキックを頼んでいるという。
お話を伺うとボールのキャッチやランニングなど他の動作には何ら問題はないということで、イップスの「サッカー版」ともいえる症状でした。将来の針路として大学卒業後もサッカーを続けたいとのことで、満足なプレーができない現状にご来局当時はとても落胆されていました。精神的にもかなり不安定になっており、この方には柴胡、竜骨、牡蠣を中心とした気持ちを安定化させる漢方薬をまず服用して頂きました。
漢方薬服用から3ヵ月が経つと気分の浮き沈みはだいぶ落ち着き、冷静に物事が考えられるようなってきたという。しかし、不運にも足を強く打撲してしまいプレーができない状態とのこと。ここで一旦、血の流れを改善して怪我の回復を促進する漢方薬に変更。1ヶ月後には後遺症も無く怪我は完治していました。怪我の間、全くプレーできなかった影響を心配しましたがご本人は「むしろ気分転換になった」とのこと。
かなり精神面に余裕が出てきた印象だったので、この段階で身体の緊張を取り除く漢方薬にシフトしてゆきました。新しい漢方薬を服用し始めてから3ヵ月が経過した頃、学内の紅白戦でキックを用いる突発的なプレーをうまく処理できたとのこと。同じ試合でのゴールキックの場面でも「半分、やぶれかぶれ」に自分でキック。予想以上に違和感なくプレーできたという。
その後も同じ漢方薬を服用して頂き、年末の天皇杯の季節になる頃には問題なくプレーできるようになっていました。この方はイップスが完治された後も、怪我や体調不良の際にたびたびご来局されていますが、特に再発されることなく元気にプレーされています。
今日、国際的なスポーツイベントにおいてドーピングが問題となっています。このドーピングには故意のものとそうではないものがあります。故意のドーピングは運動能力を向上させることを目的に使用が制限されている薬品を用いることです。
そして故意ではないドーピングとは主に治療目的で規制されている成分を含む薬品を知らずに使用してしまうケースです。例えばドーピングで規制されているエフェドリンは市販されている風邪薬に広く含まれています。
一方、漢方薬はドーピングとは縁遠いイメージですが、実は大いに注意が必要です。上記に挙げたエフェドリンは麻黄や半夏に含まれており、これらの生薬を含む漢方薬を服用していた場合、場合によってはドーピングと判定される危険性があります。
それならば麻黄や半夏を含まない漢方薬なら服用していても問題ないかというと、そうでもないのです。その理由は生薬に含まれている成分が完全に解明されているわけではないからです。収穫の時期や産地によって成分に微妙な変化が起こる可能性も否定できません。
上記の理由から、一二三堂薬局ではドーピングの検査が行われるほどの競技レベルの方に漢方薬はお渡ししないことにしております。漢方薬には未知の成分も含まれている可能性もあるので、成分単位で申請が必要なTUE(治療目的使用に関わる除外措置)を漢方薬において行使することはできません。これは一二三堂薬局の漢方薬に限らず、すべての漢方薬の使用において行使はできません。
繰り返しになりますが一二三堂薬局はこれらの理由から、ドーピングに注意が必要な競技者に漢方薬をお渡しできません。どうぞご理解頂ければと思います。
イップスはその独特な症状から医療機関で治療することが難しい厄介な病気といえます。「イップス」という言葉を生み出したトミー・アーマーもまた自身の症状がきっかけで表舞台から退いたといわれています。その一方でスポーツ界においてゴルフなどの一部の競技以外ではイップスの存在自体もあまり知られていません。したがって、誰にも病状を相談できずに悩まれている方も多くいらっしゃいます。
漢方薬は西洋薬では対応しきれないより根本的な原因に対応することができるものです。当薬局では筋弛緩薬や抗不安薬を使用してもなかなか改善が見られなかった方がしばしば来局されます。そして漢方薬を服用し始めてから、イップスの症状が少しずつとれてくることから、イップスと漢方薬は「相性」が良いと実感しています。是非一度、ゴルフに限らずイップスにお悩みの方は当薬局にご来局くださいませ。