心因性咳嗽(しんいんせいがいそう)はその名前の通り、精神的なストレスや緊張によって引き起こされる咳を指します。しばしば神経性咳嗽とも呼ばれますが同じ意味です。咳が起こる病気は多く存在しますが、心因性咳嗽においては気管支喘息や咳喘息にみられるような呼吸器の炎症はありません。
心因性咳嗽の明確な原因はわかっていません。しかし、精神的なストレスがきっかけとなって自律神経の交感神経が興奮し、結果として咳が起こっていると考えられます。
心因性咳嗽は精神的なストレスを受けた時、不安感や緊張感が高まった時などに咳が起こります。多くの場合、咳にくわえて咽喉頭異常感症(いんこうとういじょうかんしょう)やヒステリー球と呼ばれる喉に異物がつまったような閉塞感や胸苦しさも訴えられます。咳は痰の少ない乾燥したものが中心となり、喉の痛みはあまり起こりません。
呼吸器以外の症状ではストレスによる食欲不振、胃痛、そして腹痛と一緒に下痢や便秘が起こる過敏性腸症候群(IBS)といった消化器のトラブルが併発しやすいです。くわえて精神症状としては不眠、気持ちの沈み、気力の低下などがともないやすいです。
心因性咳嗽は炎症や気管支の閉塞が起こっているわけではないので、気管支喘息などにもちいられる吸入ステロイド薬や気管支拡張薬はあまり効果がありません。日常的に精神的ストレスが強い場合は、その解消が優先されます。それでも改善がみられないケースでは精神安定剤などがもちいられます。
漢方において心因性咳嗽は気の滞りである気滞をきっかけとした症状と考えられます。精神的ストレスが強くかかると気の巡りをコントロールしている肝のはたらきが失調し、結果として気の巡りが悪くなってしまいます。
気滞に陥ると咳や呼吸の乱れの他にも喉や胸の圧迫されるような不快感、動悸や胸痛、吐気や嘔吐、胃や腹部の張り感や痛み、下痢や便秘、不安感やイライラ感などの症状が起こります。心因性咳嗽は気滞のなかでも咳を中心とした呼吸器の症状が前面に出た状態と捉えられます。
心因性咳嗽が気滞によるものと考えられるケースでは、気の巡りを改善させる漢方薬が治療にもちいられます。具体的には理気薬と呼ばれる柴胡、枳実、陳皮、半夏、厚朴、香附子などを含んだ漢方薬です。理気薬には気持ちをリラックスさせるはたらきがあり、特に半夏は咳や吐気を鎮める力も持っているので、心因性咳嗽の改善にしばしばもちいられます。
咳の症状だけではなく、動悸や不安感も目立つようなら竜骨や牡蛎といった重鎮安神薬の使用も検討されます。気が滞っているために脾(脾は消化器のはたらきを代表する存在です)の調子も崩しているようなら人参、黄耆、大棗、白朮、甘草などの補気薬も併せてもちいられます。このように調合する漢方薬は心因性咳嗽という病名だけではなく、患っている方の背景や咳き以外の症状などから総合的に判断されます。
心因性咳嗽を引き起こしているストレスが明確な場合、その除去が最も効果的な治療といえます。しかし、簡単にストレスを除いたり回避できるケースは少ないでしょう。むしろ、避けられないからこそのストレスともいえます。
そこで心因性咳嗽が目立つ時期はできるだけ肉体的な疲労をためないことが大切となります。これは身体の疲れが蓄積していると、精神的なストレスに対しても抵抗力が下がってしまうからです。具体的には余裕を持った睡眠時間と休日の確保を心がけましょう。
くわえて身体を動かすことは気がスムーズに身体を巡ることを後押しします。一方で無理をしてトレーニングジムに通うような激しい運動の必要はありません。日常生活において身体を動かすことを意識し、軽いウォーキングやエレベーターではなく積極的に階段を利用することなどが大切です。
患者は30代後半の男性・システムエンジニア。社会人になってから緊張する場面になるとむせるような咳が出るようになってしまった。その後もご症状は徐々に悪化し、会社の先輩と一緒に昼食を摂るだけでも咳が出るようになったとのこと。呼吸器内科や心療内科を受診するも改善がみられず、当薬局へご来局。
詳しくご症状を伺うと、今はプレゼンテーションなどの緊張する場面だけではなく少し心配事が頭に浮かぶだけで咳が出始めてしまうという。ご症状は朝から夕方にかけて目立ち、特に朝は喉に圧迫されるような不快感もあるので、できるだけネクタイはしたくないとのこと。他にも胃から腹部にかけて張り感があり便秘気味。常に身体のどこかが緊張していてなかなかリラックスがうまくできないと悩んでいました。
この方は気の停滞がとても強いと考えて柴胡、半夏、厚朴、枳実といった気の巡りを改善する生薬から構成される漢方薬を服用して頂きました。くわえて職場ではできるだけ座りっぱなしにせず、ストレスを感じたり、気分がすっきりしない時は軽い運動をするようにお願いしました。他には肉体疲労の蓄積は精神的な抵抗力の低下につながるので睡眠時間の確保も併せてお願いしました。
漢方薬を服用して4ヵ月が経過すると、緊張するとまだ咳は出るとのことでしたがネクタイを外したいくらいの喉の不快感は解消されていました。胃や腹部の張り感も減り、食欲も高まってきたとのこと。一方でまだ便秘は続いていました。このタイミングでの微調整も考えましたが、良い方向に向いているので同じ漢方薬を服用して頂くことにしました。
それから3ヵ月が経つと、よほど緊張する場面以外では咳は出なくなり、しつこく残っていた便秘も帰宅後のウォーキングを始めてからは改善されました。この頃には職業病ともいえる肩や腰のこり感も和らいできました。この方は改善後も漢方薬の量をご自身で調節しつつ、継続服用されています。
心因性咳嗽は一般的な咳止めではあまり効果は期待できません。咳の原因が不明のまま色々な市販薬を試したり、呼吸器内科や心療内科を巡ってようやく「心因性咳嗽」と診断される方もしばしばです。しかし、病院の精神安定剤が副作用で継続できなかったり、改善がみられないという方も少なくありません。
漢方薬は心因性咳嗽による咳だけに着目するのではなく、その他の心身の症状(たとえば緊張による食欲不振や気分の沈みなど)も含めて改善を目指します。身体と精神の両面にアプローチできる漢方薬は心因性咳嗽と相性が良いといえます。慢性的な心因性咳嗽にお困りの方は是非一度、当薬局へご来局ください。